
2016-04-16 〜 2016-05-22
指導者の声は紙の擦れる音をかき消す程度には大きい。
4/27 , 4/28は開廊
4/29 ~5/8は休廊
最終日は18時まで
ギャラリートーク: 4.16 sat 19:00
クロージングトーク: 5/22(日)16:00〜、ゲスト:藤井光(美術家/映画監督)
藤井光プロフィール
1976年東京都生まれ。パリ第8大学美学・芸術第三博士課程DEA卒。2005年帰国以降、現代日本の社会政治状況を映像メディアを用いて直截的に扱う表現活動を行う。
ギャラリーNでは西岳、森部、二藤の3人による展覧会「指導者の声は紙の擦れる音をかき消す程度には大きい。」を開催します。
自らの皮膚感覚を生活空間を経て惑星地面にまでに拡張し、文明の抵抗や質感を示し続ける西岳。馬との出会いを契機とし、自身の行為と作品によって、馬と人が相互に関わりながら描いてきた営みの残滓を現代社会の中に指摘する森部。前回の個展で、重力を愛の原風景と捉え、自身や家族の重さを時間の中で捉え直す為の試みを行なった二藤。
彫刻を専攻していたという共通点はあるものの、作品の見た目も内容も異なる3人のアーティスト。
そんな3人が、今回は「戦争」をテーマとした展覧会を開催いたします。
尖閣諸島での衝突から一気に表面化した領土問題、特定秘密保護法の制定。そして多くの波紋を呼びながらも新安保法の執行に至った日本。
世界ではイスラム国を名乗るISの台頭。中東地域からヨーロッパ各都市へと広がるテロ攻撃。
震災以降の不安定な情勢の中で、戦争や反戦をテーマにしたアートの展覧会は日本各地で数多く催され、そこに関わったアーティストやキュレーターによって重要な問題提起が行われてきました。
そしてまた、国民の置かれる状況が大きく更新された現在、彼らは何を想い、何を語るのでしょうか。本展覧会を以て、三者三様の「戦争」を世に示す機会とします。
「指導者の声は紙の擦れる音をかき消す程度には大きい。」
西岳拡貴、森部英司、二藤建人、それぞれがそれぞれの仕方で、「戦争」の本質に近づこうとしている。
中央に大きな黒い箱があるギャラリースペースは、3人が展示するには手狭に感じられるが、むしろそのスペースを活かして、三者の視点からの戦争の多様性が露わになる。
車が行き交う大通りに面したギャラリーの解放的なガラス扉の向こうには、西岳拡貴が横倒しにした車がみえる。
腹をこちらに向け、普段はみえない赤茶色の機械や部品が露わになった車の姿は、白い空間の中で妙に生々しい。
西岳は、事故車だという横倒しの車で、本当のところ次の瞬間はどうなるかわからない、日常に潜む裂け目や暴力を現前化する(後で解説を読むと、その車を運転していた女性は今も元気に生活しているということがわかる)。ギャラリー中央の黒い箱を跨いだ高い位置には、森部英司が障害馬術競技で使用するバーを設置している。フランスの国旗トリコロールで塗られたバーは、中央が折れていて、馬が衝突した事故の跡だろうことが想定される。
馬は、有史以前から戦争に使用され、馬術自体が、騎馬兵の戦いを様式美に発展させたものである。今は作家の手により一本に繋げられたバーの破損は、自然(馬)と人為(競技)が拮抗した痕跡であるようにみえる。またあまりに高いハードルは、無謀な戦意高揚を彷彿とさせる。森部は、馬を介して、人間の登場以来根源的にあり続けた戦争を可視化する。
最後に、二藤建人はギャラリースペース奥の茶室に、爆弾が眠る布団を用意した。鑑賞者はそこで、爆弾と添い寝することになる。すると、作家と妻の痴話喧嘩が、時折爆発の振動を伴いながら聴こえてくる。
生活レベルで交わされる経済や差別についての会話が、国家間の戦争へとスライドしていく。二藤は、戦争は我知らず発生するのではなく、すでに私たちの身体の中に、その一部が巣くっているかもしれないことを告げる。
「指導者の声は紙の擦れる音をかき消す程度には大きい。」本展では、決して広くないギャラリーの様々なレベルを利用して、床に横倒しになった車が戦争の「暴力」を、高い位置に設置された馬術競技用のバーが戦争の「歴史」を、
爆弾と眠る布団が戦争の「日常性」を、巧みに暗示していた。
戦後70年が過ぎた現在、再び戦争に目を向けようとする若い世代の作家が増えている。それは、憲法改正論議や国内の局部的右傾化など、これまで以上に「戦争」や「国家」というものを、リアルに感じざるを得ない状況の表れといえる。
また、70年の時を経た今だからこそ、戦後タブー視され直視されてこなかった問題に、若い世代の作家が新たな眼差しを向けられるようになったということもある。しかし、国家だけが合法的に暴力を用いることができる戦争は、
そのことを隠ぺいするべく、多くの正義や感情で覆われている。兵器の発展のため、戦闘のあり方もまるで違ってきている現在、「戦争=悪」という図式からでは、なにもみえてこないように思える。冒頭で、
本展の3作家は「『戦争』の本質に近づこうとしている」と書いたが、その「本質」というのは、実にみえにくいものである。そもそも、戦争の「本質」も「リアル」も、どこにもないかもしれない。それでも本展の作家たちは、
依然として近いのか遠いのかわからない戦争を、通念を超えて、現在の我が身で捉えようと苦心していた。西岳は暴力に潜む快楽を、森部は人間につきまとう闇を、二藤は自らの生活圏にある欲望を、
戦争への危機感とアンビバレンツな形で内包させている。それは、同じく戦争の正体がわからぬまま漠とした不安を抱える私たちの姿とも、重なるようにみえたのである。
(豊田市美術館 能勢陽子)
Photo by Hiroshi Tanigawa






