2020-12-05 〜 2020-12-27
3cm前のせかい
(水曜、木曜、12/11、12/12、12/13は休廊、ただし12/9は営業)初日は18時開廊
最終日は18時まで
12.5 sat 19:00 アーティストトーク
夜、小さな灯りの中で絵を見たら、
キャンバスの厚みが影と一体化して少し壁から浮いているようにみえた。
四角い平らな面の上でむにゃむにゃとした形が揺らいでいる。
見ることを意識していない時、形の意味がわからず不可解なものにみえることがある。
驚き「見ること」を意識するが、不可解に思ったものはもう見ることはできず見知ったものになっている。
その一瞬、今までの知識や経験が通じない別のせかいを垣間みたような感覚になるのだ。
それは見たものの中から必要としない情報と感覚が排除されようとする時、ヒトの野生的な部分でかろうじて捉えた、
ものをものとする前の「具象以前のせかい」であり、そのせかいは私が見ている世界のほんの少し前にあるのではないか。
宙に浮いた絵をそう見て思った。
私の絵は、私の野生をもってせかいを再構築し捉えようとしたものである。
(中小路萌美)
世界を掴む喃語の試み
千葉 真智子
青みを帯びた画面上を浮遊するかのような不定形な複数の形。今どき珍しいなどという言葉で括るのが軽薄だとは承知のうえで、しかし、今どき珍しく、坂本繁二郎など日本のある種の洋画の正統な系譜にあるかと思わせる、柔らかでありながら独特のマチエール(テクスチャー)をもった色面が目を惹く。何かを彷彿させる形―例えば街中の一角を思わせるような誰もが経験的に感じとるだろう形―は確かにその通りで、作家によれば、実際に目にした風景を画面に描いてから、複数の形に分解して何度も重ね塗りしながら、その形を入れ替えたり、向きを変えたり、カンヴァス自体も回転させたりして制作しているのだという。最終的に現れた形は途中段階で様々な色の変化をも辿っているのだろう。幾層もの重ね描きによって、白や茶、ピンクや青などと一口に言ってもそれぞれ複数の色の含みを持ち、落ち着いたトーンのために一瞬忘れてしまうのだが、色の組み合わせは実はかなり対比的で、しかもそれらは色の性質に由来する奥行きの錯覚から逃れて、前後関係を錯綜させている。
こうして何度も形を入れ替え、塗り替えて出来上がった、作家が言うところの「むにゃむにゃしたかたち」の絵画を、何と命名することができるだろうか。無題としたり、記号的に分類してしまうには記憶の残滓や形の揺らぎの痕跡があり過ぎるし、具体的な名を与えるには、それに見合う明確な一つの全体があるわけでもない。だからだろう。もう10年も前から、作家はそれらの絵に、平仮名の二、三文字を組み合わせた不思議なタイトルを与えている。「えくる」「すくら」「くてる」。元になった風景の場で聞こえた音や見たものの断片からイメージされた音の組み合わせなのだというが、意味から分離したその音だけの連なりは、思わず声に出してみたくなる。そうして発せられた音は、あたかも言葉を話し出す前の子どもが声を発っしたかのような、あるいは耳にして覚え始めた曖昧な言葉を口にしたかのような独特の響きを持っている。
ローマン・ヤコブソンによれば、言葉を覚える以前の「喃語」の段階において、幼児は無限の音声能力を持ち、言葉を覚える段階で、それらの一切は忘却されるのだという。言語の獲得と引き換えに失う無限の音=喃語の可能性。それはしかし、オノマトペや感嘆詞の形で、この世界に谺のように残る。喃語の忘却は、私たちが何かを創造するために必要でありながら、しかし、谺として、エコーとして、この世に響きつづけるのである(ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス』)。中小路の試みは、まさに言葉以前の喃語のときに遡るように、事物を、命名以前の形に解体し、オノマトペのように、新たな形にして声を当てがうことにも例えられよう。忘れられた声を、創造のなかに、エコーのように呼び戻すのである。
10年以上続く試みのなかで、これまでは一つ一つ平面的で完結していた「むにゃむにゃした」喃語の形は、新たにそれぞれがむくむと生命を得たようなボリュームを持ち始めている。その浮遊する形は、自立して定着することなく、生成変化し続けているようにも見える。こうして、掴みどころのない、判然としない形であったはずのむにゃむにゃは、ここにきて掴み難くも、掴みたいという欲求を私たちに誘発するような実態を帯びるにようになった。それは、喃語を発しながら世界を掴もうとする幼児のように、世界を掴もうとする作家の姿自体にも重ねられるだろう。 (ちば まちこ:豊田市美術館学芸員)
展示風景動画
https://youtu.be/16mOgN410k0