行為としての美術、強度としてのアート

昨日は愛知県美術館で開催された西岳拡貴「ROAD OF SEX」の作家によるレクチャーに参加してきました。彼自身が今までの活動についてと今回の作品《ROAD OF SEX Tokyo>>aichi》について語ってくれました。これまでの彼の制作活動を「マテリアル」「スカルプチャー」「ドローイング」「プロジェクト」に分けて紹介してくれたのと今回のプロジェクトに至った経緯を話してくれました。今回のプロジェクトが映像作品なのか彫刻作品なのか、果たしてアートといえるのか議論は様々ですがここでジャーナリストの加藤孝司氏が今年の3月に西岳拡貴と二藤建人の2人展に寄せて書いてくれたテクストを紹介し、西岳作品について考える一助となればと思います。

「西岳拡貴×二藤建人」2人展。
行為としての美術、強度としてのアート

路上という誰のものでもないものを、自らのキャンバス、あるいは絵の具として、半固体のラテックスを絵筆に、世界そのものの似姿のようなアノニマスな球体のオブジェと化した西岳拡貴。
使い回された雑巾の洗っても洗っても少しずつ堆積していく汚れを、ものに染みついた記憶や行為の蓄積と解釈し、それをありのままに顕在化させることで、他者と自己の行為をいとおしむように、淡々と作品化する二藤建人。

二人に共通するのは、有形無形を問わず自己以外の他者を自らに内在させ、自意識を他者化することで自己を無効化しながら、作品において逆説的に自己形成をしていくそのプロセスである。そこに二人の現代美術作家としてのユニークさと、誰がみても分かる作品と行為の唯一無二の面白さがある。
その「はてしない行為」そのものを作品化することは、同時にそこでの行為そのものを自身の身体を通じてメディア化することでもある。二人の作品をよく見るとわかるのだが、それを支えているのは、作品に具現化した本能的ともいえるコミュニケーション能力と、あらゆる前提を抜きにしても存在しうる、メディアとしての作品の質の高さである。
それと同時に、美術が美術とよばれる以前の原初的なものの驚きと、アートがそもそもその概念に内包する、社会性と反社会性といった相反するものが共存している。
作品に露わにされたその均衡が、二人の作品に共通する強度やおおらかさに繋がっているのも事実なのだが、それはすぐれた美術作品がもつ深い闇ともいえる「謎」に繋がっていることもまた事実なのである。

加藤孝司(ジャーナリスト)

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